「ゲーム心理学」知見保管庫

「ゲーム心理学」の参考文献等を投稿します。

第1章

文脈依存性。

 

個人は、能力と識別される、成果の原因となる内的かつ安定的な要素を保持しているとされる。クイズ力とか、非認知能力とか、問題解決能力とか。

で、能力は「いつでもどこでもそれが発揮されうる」安定性と、「何かを成すために内に秘めている力」という内在性がある、とされる。

そういうわけではない。

例えば、数学的思考力について、問題の文脈が異なるだけで正答率が大きく異なることがある、しかも再現性がある。基礎的な算数はできるが、まったく同じことを問う文章題では、成績ががくんと下がるように。このとき、文章題ができないから計算能力がない、と決めつけるのは早計だろう。

 

「それは1%の確率で発生する。それを識別できる装置は、80%の確率でそれを正しく識別できる。ただし、それが発生していないものに装置を当てても、9.6%の確率で、それが発生しているとされる」

「それは1000に10つの確率で発生する。これを識別できる装置は、10つのうち8つの確率で、それを正しく識別できる。ただし、それが発生していないものに装置を当てても、1000に96の確率で、それが発生しているとされる」

このとき、識別したものが、真にそれである確率はいくつか。前者だといまいちつかめない。後者であれば、8つと96の比較で、なんだ大したことないことだとわかるはず。

パーセントで記したときには、そもそもそれが生じづらいものであるということを無視する、事前確率の無視が生じやすい。が、数字の表記を変えるだけで、事前確率を無視しなくなる。

『知的好奇心』でもふれられた路上の算数が、ここでも説明になる。机の上では散々な成績の子供が、街中でモノを売るとき、机の上でやった算数よりも複雑なことをやってのける。

 

問題が与えられる文脈と環境により、発現する成績は異なる。これは、能力といえるものが、内在性と安定性を持たないことの証左となる。これは、人間の認知と思慮が、単に内的な知覚で完結するものではなく、環境や文脈との相互作用によりなるものであることが原因。

そもそも能力というものが構成概念であり、場によって発揮が全く異なるとなれば、発現の一端である成果を取り上げ、能力全体を推し量るのは好ましくない。盲目を招いてしまう。